健康を「努力」ではなく「生き方」として取り戻す。
医師として、母として、ひとりの生活者として―
自分なりの人生を、健やかに生きていきたい。
自己紹介
プロフィールをご訪問いただき、ありがとうございます!
ポケット先生こと、岡崎逢子(おかざきあいこ)です。
総合内科・感染症科の医師として、都内の教育研究機関で臨床・教育・感染症研究に携わっています。
SNSやブログでは、「医療と生活をつなぐ実践知」をテーマに、
病気の知識や市販薬の使い方、健診・検診の活かし方、食事・睡眠・運動・メンタルの整え方など、
暮らしの中で“医学を生かす”ヒントを発信しています。
現在の活動・ミッション
現在は、「ヘルスDIY」という3ヶ月の生活習慣プログラムを中心に、
医学と行動科学を組み合わせた健康づくりを研究・実践しています。
企業・自治体向けの健康経営支援や講演、医療監修にも携わり、
「健康を努力から生き方へ」―その理念を、社会に実装することを目指しています。
一人ひとりが“自分の健康を自分で設計できる”未来をつくること。
それが、私のミッションです。
SNS・発信活動
InstagramやYouTubeでは、医師の視点から「信頼できる健康情報」を発信しています。
フォロワーは約4万人超。病気の知識や市販薬の使い方、健診・検診の活かし方、食事・睡眠・運動など、医学的エビデンスを生活に落とし込む形でお届けしています。


わたしについて
ワーキングマザーとして内科勤務医と大学の教職をしています。
わたしの発信活動は、すべて個人の意見であり、所属施設との関連はありません。
ここに書くのは、すごく個人的なわたしの来歴です。
長いから、もし暇で暇でしょうがない時があれば、よかったら読んでみてください。
子供の頃と両親の離婚のこと
3人兄弟の長女に生まれ、小さい頃は明るくてのんびりした子だったようです。
小学生の時に両親が離婚、母に引き取られて引っ越しました。
引っ越しの日は父方祖父母に預けられたのですが、父がそれはそれは沈み込んでいて...
子供ながら「おばあちゃんのお家に行けるよ」と父の気持ちを慰めようとするも、「でもこれで君たちはいなくなっちゃうんだ」と寂しそうな顔をしていたのが忘れられません。
引っ越してからは母子家庭のご多分に漏れず、経済的にはどんどん苦しくなっていったのを覚えています。
母も精神的に追い詰められていたようでしたし、面会を拒否されていた父が校門で出待ちをしていたことも度々ありました。
父と会ったとわかると母の機嫌も悪くなるため、コソコソと隠れて一人で登下校し、いつも神経をすり減らしていました。
そのためか小学校中学年ごろからは、わたしは随分気難しくなり(笑)、休み時間にも教室の片隅で一人で本を読んでいるような子になりました。でもそのお陰で「読書」という一生の趣味に巡り合ったので、悪いことだけではありませんでしたが!
思春期と登山のこと
中学受験はそこそこに、国立の中学校にすべりこみました。高校には内部進学し、もう一つの一生の趣味「登山」に出会います。山岳部に入ったのですが、部員は2学年上の男子数人のみでした。
よく入部が許可されたと思いますし、よくあのメンバーで登山を出来ていたと今でも不思議です。
他の部員とあまりに体力が違いすぎるので、山頂で失神するように眠りに落ちたことも一度や二度ではありませんでした。
でも山の魅力にはすっかり取り憑かれ...大人になってからも一人で3000m級の山々を縦走しておりました。
さすがに妊娠してから行かなくなってしまいましたが、子育てが一段落したらまた行きたいと密かに願っています。
そんな部活でしたので、先輩たちが卒業した後は廃部になってしまい、その後は特に部活には所属せずにまったりと生活していました。
大学時代とハリボテの自分のこと
弟妹がいて、経済的にも余裕はないので、大学は国立現役のみ...という目標で、模試でA判定の大学を受けて無事合格。
父にも電話で報告しましたが「医者なんてヤクザな仕事、俺は認めない!」と電話口で怒鳴られたのがショックで、しばらく呆然としていたことを覚えています。
父は自分の仕事が大好きでしたから、自慢の長女が違う道に進んだのが残念だったのでしょう。
大学では硬式テニス部のキャプテンをして、交換留学に3回行って、お金をためてはバックパッカーで海外を放浪し...
それなりに充実してはいた気がします。
でも、わたしは薄々危機感がありました。さして努力せずとも試験にパスしてしまうので「勉強のやり方」を知らない気がしていたのです。
研修医時代と父のこと
そしてそれは現実になりました。
またしても、大して努力せずに倍率の高い研修病院に滑り込んだわたしは、とうとう同期との圧倒的な格差に直面します。
PDCAサイクルを回す速度や効率が圧倒的に違うのです。
同レベルのスキルで入職したのに、みるみる引き離されていくのが肌感覚で分かります。
必死で勉強しているのに、いつまでたっても同期で一番使えないのは自分。
「また怒られていたね」と患者さんに心配されるくらいでした(笑)
生涯の趣味となる「ヨガ」に出会ったのも、研修医の頃です。
あまりに忙しくて、ジムの月会費を無駄にしまくりましたからね...
あきらめて、家でできる運動として始めました。
父は初期研修1年目に亡くなりました。
偶然にも、わたしの初期研修先の近くの病院でした。
入院したと知っても、わたしは全然お見舞いには行きませんでした。
もともと感情に波のある人でしたし、晩年は認知症にもなっていて、話をするのは辛かった。
亡くなる前日に会いに行き、苦しい息の下で名前を呼ばれた時も、ただ戸惑っていました。
そしてその日が来て。
父に経帷子を着せ、骨を拾い、父の家を整理して、父のお世話になった方たちが「偲ぶ会」を開いてくださったのに出席し。
全部終わってから、どっと後悔して、ひどく寂しくなったのを覚えています。
「なんでわたしは、父の愛に応えられなかったか」
妊娠出産と産後うつのこと
なんとか初期研修を終え、一緒に初期研修した夫と入籍したのは医師4年目の時。
夫とは「病院で一番ハードな科」を一緒に回ったのが縁で、結婚まですることになりました。
ただ、本業の方は後期研修になっても状況は同じ。
「先生は自分の興味がないことも、もっと勉強しなさい」と指導され、
抄読会といって、自分の選んだ論文を批判的吟味してプレゼンするトレーニングでは、「そもそも論文の選定が良くないので検討に値しない」と一刀両断され、
挙句の果てには、妊娠・出産。(しかもつわりで数ヶ月休んでいます)
全員一致で「何やってんだこいつ」と思われていた気がします。
そして生まれた長女は、NICUに入ることに。
NICUは無事に退院できましたし、それから2ヶ月ほどはワンオペ育児でなんとか頑張っていたと思います。
でも変化は突然やってきました。
まず眠れなくなった。30分おきに目が覚めるようになり、
柔軟性がなくなって、少しでも何かが自分の予定とずれると怒りがこみ上げるようになりました。
少しして読書やヨガのような趣味に興味がなくなり、
気がついたら首を吊ろうとしていました。
準備して台に上がった時に、ロボット掃除機が動き出してしまい...
布団に寝かせていた長女を抱き上げて、これが終わったらにしよう、と思っていたら夫が帰ってきたのです。
あの時掃除機が動かなければ、わたしはここにいなかったと思います。
それから夫は育休を取ってくれて、しばらく3人で生活しました。
この頃の長女の写真はすごく多い。
幸せそうな写真ばかりですが(事実幸せでもありましたが)、
わたしがしょっちゅう夜中にふらっと出て行ってしまったり、泣きながら夫を詰ることが続き、夫も完全に疲弊していました。
「僕がいないほうが良いなら出ていくから、どうか生きていてくれ」と懇願されたのを覚えています。
それでもなんとか持ち直し、産後5ヶ月で仕事にも復帰しました。
定時で帰ること、終業時間間際の入院は取れないこと、子供が熱を出すこと...
謝ってばかり、勉強時間も確保できない生活に苦しくなりつつも、なんとか仕事を続けていました。
やっと安定したのもつかの間、今度は次女を妊娠。
妊娠が分かって、とても嬉しかったですよ!
ただ予想通りつわりはキツく、出血もあったので、また休職してメンタルはどん底へ。
休んでいるうちに、気持ちは安定してきたのですけど、
結局出産まで復帰することはできませんでした。
度重なる妊娠のこと、育児していること、そもそも勉強が足りないこと。
いろんなことに引け目を感じながら、それでもまた職場に戻る勇気は、もうどこを絞っても出なかったのです。
キャリアは終わりだ、今後一生バイト医でもやるのだろう...と本気で諦めていました。
幸い次女は何事もなくするっと生まれ、産後にヨガインストラクターの資格も取ったりしつつ、わたしは産後3ヶ月で今度こそ復帰。
今更どの面を下げて...と、超〜いたたまれない気持ちでしたが(笑)
そして希望が戻ってきたこと
1年ほどしてわたしは大学に戻ることになりました。
それまでの1年、時間がないなりに必死に働いて、早朝に勉強していました。
最後の指導医に「先生の臨床能力は、まあ普通じゃないですか」と講評を受け、嬉しくてその場で泣いてしまいました。
わたしは、ようやくスタートラインに立てた。
少し調子にも乗ってきたので(笑)、SNS発信も始めました。
ありがたいことに、あっという間に数万人の方にフォロー頂いています。
ワーママ・臨床医・SNS発信者を続けながら、
大学院博士課程も無事に卒業し、元気に働いています。
わたしはこの人生経験と自分のスキルを統合して、皆さんのお役に立ちたいのです。
これからのこと
大した論文も書けず、卓抜した臨床スキルもなく、医師の基準では明らかに二流です。
その代わり、患者さんからは暖かい信頼を寄せていただいています。
医療と日常を、健康でつなぐ糸でありたいと思います。
これがわたしの希望です。
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最後に
健康は、がんばる人だけのものではありません。
「今日も体にいいことしたな」と思える日々を、
あなたと一緒に積み重ねていけたら嬉しいです。
